Exif

  • 2020
  • Multi-channel video
  • Cooperation: Carlos Toshihiro YF

Installation view at エクメネ, BLOCK HOUSE, Tokyo(2020)

Photo: Rakutaro Ogiwara

今ここには私が撮影した写真と、その撮影者である私を撮影した映像が流れている。そして、この撮影は境川という川の流路で、日の当たらない時間帯に、このようにして行われている。

 

先程の写真や今写っている写真の撮影には全てネガフィルムが用いられており、先程や今ディスプレイに出力されているのは、そのネガを現像したのち、スキャナーでスキャンをしたものだ。
ご覧のような環境の中での撮影なので、撮影者である私はカメラを三脚に固定し、シャッタースピードを30秒に設定したのちシャッターを切っている。その私を被写体とした映像を見るに、カメラがシャッターを切っている30秒の間、私はただソワソワしたり、キョロキョロしたりしている。
撮影とは、常に動き続けてしまう何かを別のものによって区切り、固定し、省略する、ということでもある。だが、こんな様子も「フィルム写真の撮影」と呼ぶならば、一体何が区切られ、固定され、省略されるのだろう

 

1934年、コダック社によって35mm幅の写真用カートリッジ式フィルムが開発された。この軽量金属でできた筒状のカートリッジは「パトローネ」と呼ばれ、写真機へのフィルム装填や取り出し作業において暗室を必要としない点で画期的であった。パトローネは成人男性が両手を広げた長さである一尋 (いちひろ)、約182cmのネガが収容可能な設計となっている。この一尋というのは写真を40枚程度、最低でも36枚撮影できる長さでもあり、またこの36枚というのは、1925年に生産が開始されたライカカメラの仕様が36枚撮りであったことから踏襲された枚数らしい。

 

36枚撮影し終わったフィルムを現像屋に持っていき、仕上がりを1時間ほど待つ。フィルムはミニラボと呼ばれる自動現像機に通されたのち、店員さんが6コマずつにカットして、スリーブに入れて渡してくれる。
現像から上がったフィルムを、今度は自宅に持ち帰り、スキャナーでスキャンする。フィルムホルダーはちょうど6コマのフィルムが2列、合わせて12コマが収まる作りになっている。
フィルム露光後に他人の作業が差し込まれ、しかし暗室を通らずしてスキャンデータを作成する。手元にあるネガフィルムがデジタルデータになるまでのプロセスは理解しているが、それ以上小さな単位で、このネガフィルムがどのような時間を過ごしたのかは知る由も無い。
むかし和菓子の製造ラインのアルバイトで行っていた、大量のあんをひたすらモチにくるむ作業に似ているなと、たまに思う。

 

今、私が撮影を行なっている境川は、相模湾に注ぐ二級水系の本流であり、流路に沿っておおむね東京都と神奈川県の都県境を定める川である。

 

2020年4月、緊急事態宣言が発令された。インターネット上で放送されていた東京都知事の会見を見るに、どうやら都外への移動の自粛を要請する、とのことであった。自分が今制作を行なっている自宅は東京都町田市にあり、最寄りのコンビニやいつも消耗品を買うスーパーは境川を挟んで県向こうの神奈川県相模原市にある。困った。しかもそれから一週間とたたないうちに、県外ナンバーの車に投石をした人が逮捕された、などというニュースを見かけたりしたから、今度は本気で困ったし、Amazonで注文できる日用品の値段を見ては頭を悩ませたりもした。

 

今Amazonでコーラを注文すれば、明日には届く。
この仕組みは、配送倉庫や商品撮影のスタジオ、ネットワークシステムのサーバーなどに従事する数多くの人の移動によって成り立っている。そして、この移動は「今Amazonでコーラを注文すれば、明日には届く」という一つのフレーズの中で省略されている。Amazonに限らず、現実においては何か大きな制度や抗いがたい外的要因によってたびたび単位が規定され、物事の意味が省略される。それは歴史や、行政の都合や、自らの認識の不完全さに起因したりするし、コーラ購入や投石へのモチベーションもまた、こうした省略をあたかも自分自身が望んで決定したと勘違いするところから始まったりする。

 

1594年、境川流域を大水害が襲った。
この時、流域の村々が壊滅的な被害を受けた折に、当時の徳川氏の幕臣であった野村彦太夫が総検地を実施した。
それぞれバラバラなものとして成り立っていた人々の血族関係や土着的な物事が、川を囲む自然環境や立地の条件、すなわち近世の行政単位によって規定し直され、この川もまた「武蔵国と相模国の境目を果たす川」とみなされた。この時、高座(たかくら)川、田舎川、音無川など、流れる地域によって存在したいくつかの呼ばれ方は、どこかに流されてしまった。この後、川は単にさまざまなものの境目として歴史の中で扱われることになる。

 

今私は境川の上流部に位置する「小山」と呼ばれる地区で撮影を行っており、また私が撮影されている。

 

小山、というのは川を囲むように形成されたムラとしての名前であり、川が境川となったのちも、子供たちが石を投げ合って遊んだり、葬儀などを助け合ったり、川向こうに働きに行ったりしていたそうだ。地元住民団体の運動によって、今、川は自然豊かな状態が残されているが、蛇行していた旧流路に合わせて設定された都県境には却って微妙な飛び地が発生し、その調整作業は居住者と行政の間の問題によって殆ど進まなかった。境川は今でも、歴史において「地元住民団体の粘り強い運動」とみなされるような小さな単位においては、境ではない。

 

1962年5月、住居表示に関する法律が定められた。これは、町名・字名と地番ではなく、町名・字名と街区符号と住居番号または道路の名称と住居番号で住所を示す制度である。小山にもまたこの制度は適用され、相模原市側に「小山」という大字(おおあざ)、町田市側に「小山町」と「小山ヶ丘」という地名を残した状態で、バラバラに区切られた。なお、その後の再編などによって、結果的に今は相模原市小山と町田市小山町とが隣接していない状態となっている。

 

この小山にて、旧来の住民たちは現在の神奈川県相模原市側を「日陰小山」、町田市側を「日向小山」と呼んでいたそうだ。日向はのちに「小山ヶ丘」となるが、それは小山の日向であった丘陵地が1990年以降に、多摩ニュータウン計画のうち最も進行の遅かった「相原・小山土地区画整理事業」に指定されたことで名づけられた名前だった。そこは今、日向に相応しく、過剰なまでに明るく清潔な分譲住宅が鈴生りになっている。
日向が小山ヶ丘となっても日向を手に入れた一方で、日陰も、同じく1990年代以降に宅地化開発が進められた。ただし日陰では、元来存在する農地の区画に沿った状態での宅地開発、という方法が適用された。結果的に形成された街路網は狭く、暗く、複雑だった。

 

日陰日向、という呼ばれ方が単に地形上の理由で生じたのか、もしくは背後に心意があったのかはわからない。そうした心意があった、もしくはなかったという事の記録は、今となっては小山地区のいわゆる「古老」の言質以外にはない。国家や民族の歴史という大きな単位の中で、それを含み、またそれに満たない個々人の歴史は確かに存在するのだろう。そして今、それ以上のことは分からない。

 

今私は小山の境川沿いでフィルム写真を撮影しており、また私がデジタルカメラで撮影されている。

 

旧来より写真を論じる上では、今や過去、記憶や記録といった言葉が常に用いられてきた。2015年ごろには、フィルム写真もまた、今を記憶する、今っぽいものとなった。先ほどからここに登場するフィルム写真というのは、「35mm判ネガフィルムカメラで撮影され、そのネガをデジタルスキャンしたデータ」全般のことを指していたし、指している。今撮ったものがネガという物体に記録されるという体験は、生まれた時からカメラといえば「デジタル」だった10代の人間や、幼少期の記憶がネガフィルムに、それ以降がデジタルに結びついている20代の人間によって再発見された。いわゆる、リバイバルブームだ。

 

「デジタル」においては、フィルム写真の面倒さが省略される。フィルムの購入、巻き取りや露光の失敗、品質の安定しなさ、時間のかかる現像処理など。
デジタルは予想外のものが撮れないとか、デジタルは楽でフィルムは大変だからフィルムの方が優れている、と言いたいのではなく、おそらく人間は、撮影の簡便さや安定、速さ、その先にある退屈に多分、耐えられない。
複雑さや面倒さはある時、耐えがたいものとなる。しかし、今がひたすらこのまま続くのは、もっと耐えがたい。

 

では、フィルム写真の撮影がずっと続く、というのは、どういうことだろう。耐えがたいものを、また別の耐えがたいもので省略したとして、それもまたずっと続く。
今ここにあるのは、区切り、固定し、省略する作業が続く様である。せめて今のように、何が省略されたのかということだけでも記録できれば、これをこのまま続けることができそうなのだが。

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私がエクメネを見に行った日のこと 執筆: 西村梨緒葉