花でも買って帰ろう
Photography, Text
制作協力: 船井雪乃
2017
Text(Written by Yukino Funai)
この度はありがとうございます。この旅はよろしくお願いします。
この街というのは、盆地であることと、道が碁盤の目の様に整備され四方の突き当たりが見えやすいことによって、どちらをを向いても道の先には山が見える。その日の早朝は、柳と山と朝日の三層のレイヤーが日本画よろしく目の前に現れ、なんともわざとらしいくらいの歓迎をされた様だった。柳を通り過ぎると、山に近づき、しかし日は動かず、街全体は橙色した、またその影は冷たい色した様子だった。
のぼったりのぼったりおりたりのぼったり。
歩くのは好きだが身体に於いて得意とまでは言えないらしく、右股関節が痛んでしまう。それから左の鎖骨のあたりの動脈ががキリキリと痛む。それでも歩くこと、殊山に於いては好きでたまらなく楽しいものだから、伏見稲荷の京都トレイルなんぞという山道を、火でも焚べているのだろうか、何処かしらからか匂ってくる焦げた空気を吸いし、吐きし、息切れをするのを隠すように大きく平らな呼吸をしながら、この道が何処までも続いていて一生登れたらいいのに、そうしてもし終わりがあるならそこが天国なんだろうなどと思い思い登り続けた。冗談でなく、この山は天国に近い。これだけの鳥居、ひいては人たちの特別な念を持ってなされている場所は怨念に近い。つまり天国、怨念など、到底人が気軽に触れるようなものではなく、どちらかというと天国といった方が近しい。そんな山が観光地として消費されているのを、なんと祝福されたものだと、黒人や、中国人やらがセルフィーを撮っているのを見ながら思った。これは京都全体にも言えたことで、そんな人間とは隔たれた山に囲まれた京(みやこ)、というのは実に不思議な場所に思う。もしかしたら目に見える観光客、或いは京都在住者、或いはその両方が、何某かの妖怪の類なんじゃないか知らん、などと、山の中腹の開けたところから緑に囲われた町を一望して思った。
関西の飲み物に「ひやしあめ」という、生姜と水飴を水でといたでものがある。「ひゃーしゃーめ」と発音しなさい、と、大阪で生まれそだった父に仕込まれたのをそのままに、ひゃーしゃーめだ!と、山に点在する自販機にひやしあめのカンカンが売っているのを見つけて叫んだ。買って飲んでみると、随分水っぽく、生姜のジリジリとした辛味もなかったが、山の自販機ということを考慮すると、これくらいの方が却って喉が乾かずにすむのだろう、また、こんな簡易式なひやしあめだから出来もこんなものなのだろう、と自分を納得させるように考えた。ところで、この旅でひやしあめを飲む機会は二回あった。二回目のひやしあめは、日も暮れて腹をすかせたので、どこで飯を食おうかと考えあぐねた挙句入った、細かく賽の目にバラされたこんにゃくが印象的な、お好み焼きに近い具を粉物の焼いたので簡単に巻いたもののみが出される店で飲んだ。こちらはなるほど、記憶の中のひやしあめにとても近い、少しのとろみと辛味のあるもので、大変満足したと同時に、小さいころを思い出した。お好み焼き風のものとも相性が良く、気分のいい夕飯だった。
二日間、梅湯という銭湯に通ったわけだが、初回は土地柄何を言われるか知ら、と内心慄きながら入浴した。東京であれば浴場で居合わせたご婦人と談笑、などということもあるが、ここでは下手に声をかけては疎まれるのではないかという懸念があったため、おとなしく一人で湯をしばいていた。二回目に梅湯に行った時は、ただの一回入ったことがあるというだけでいくらか馴染みを感じ、脱衣所に誰もいないのを確認して、壁一面に貼られた鏡に映る、いくらか貧相な身体をした自分に向かって、インスタントカメラをパチャリと鳴らした。それから浴場に入場し、昨日よりかは大分ほぐれた心持ちで湯を楽しむことができた。撮った写真は、この旅で一番良い自分への土産になったかと思う。
うまい蕎麦を食べた。辺鄙なところにある蕎麦屋だが、並び待ちで二組目に案内された。尤も、店を出る頃には五、六組ほどの行列ができていたので、二組目だろうと、いい時間に来られたといって差し支えない。店内はテーブルが五つあるばかりで、飾り気のない質素な、かといってそれを誇示するでもない、嫌味のない簡単なつくりだった。ただ趣深く感じられたのは、お勘定に際しての所謂レジスターが、小さな木の箱、それも箪笥のような見た目のものであったことだ。おそらく夫婦2人で切り盛りしているのだろうか、背中に竹の定規でもあてているのか知らというような姿勢の美しい、綺麗にきつく結った髪束から残された後れ毛が印象的な初老の婦人、といっても相当若く見えているであろう女性が、上品にチャキチャキと給仕をしていた。席が空くのを待つ間、注目すべきは真ん中のテーブルにどっしりと構え蕎麦を啜っていた、五十代程度であろう常連らしき男性だ。否、蕎麦を啜っていたわけではない、食べていた。彼は蕎麦を箸でたっぷり持ち上げると、そのほんの先に、ついているかいないかというほどに少しばかりの塩をつけ、啜るでなく白米を頬張るように食べていた。蕎麦に塩だけをつけて食べるというのを初めて見たので、ぜひ真似してみようという好奇心に駆られながら順番を待っていた。それから間も無く小さなテーブルに案内され、蕎麦屋に着く前から食べようと決めていた鴨せいろと塩を注文した。蕎麦には明るくないが、手打ちだろうか、不揃いな麺の先に、先ほどの男性の真似をして、少し塩をつけて食べた。味はうまいんだか、うまくないんだか、正直なところよくわからなかった、というか塩の味がした。ただ蕎麦屋の雰囲気や店構えに似たような味がして、そういった意味ではとてもおいしく食べることができた。しかしながら、それ以上に鴨汁がたいそう美味しかったため、残りは通常の通りに蕎麦を啜った。塩で蕎麦を食べておいしいと感じたのは、あの蕎麦屋だったからなのか、また東京で試して見たいと思った。でも、本当のところは、あの蕎麦屋だからなんだろうな、と思っている。
初めて、親族が自分ひとりだけの状態で祖母の墓参りをした。冷たい小雨の中傘もささず、お墓の前に立って何をすれば良いかもわからず、竹久君の紹介、家族の近況などを墓石にポツポツと話し、手を合わせた。それが済んだら、墓参りというのに果物一つ酒一つ持って行かなかったため、墓石に打つ雨粒をなんとなく眺めることしかできなかった。私の中の親戚というものの存在を体現するかのような時間が石を伝って流れた。向こうからの働きかけがなければなかなかどうしていいものかわからない。死人に口無しとは意味が違うけれど、死んだ人とは話せない、けれども生前もこんな様な時間が流れることは多かった。ただ血縁者というものはなかなかどうして、そんな空気を作ってしまう存在でありながら、大切にしなくてはいけないものなのだなと、厳かな墓石の前で疑問も持たずにぼんやりと考えた。
京都市内のバスはどうやら料金が一律で、一回乗車毎に二百三十円かかる。バスの街といっていいほど沢山のバスが行き交い、それを観光客が名所まわりの際に利用するせいか、一日乗車券というものが五百円で売っている。一日に三回以上バスに乗るのであればそれを買ったほうが賢いという代物だ。京都の伯母の勧めもあり、一日乗車券を購入し、バス内で日付を印字してもらった。京都のバスはものすごく混むうえ、その日は生憎の悪天候で小雨がパラパラと降っていたが、うまいこと座席に座ることができたので窓の外を眺めていると、丁度鴨川に架かる橋を渡ったとき、雨降りの中傘が並び人々が橋を渡って西へ東へ向かう姿が、広重の大はしあたけの夕立の絵の様に見えて、古今東西変わらぬ風景というのはあるものなのだ、とベタに魅入ってしまった。ある強い情感を得たときに目が見えなくなる、例えばある思い入れのある匂いを嗅いだとき、匂いの対象物が思い出され、その間視覚が働かず目の前のものを認識していない、という様なことが生活の節々であるが、バスに乗って窓の外を眺めたときも、見えている景色と大はしあたけの夕立の絵のどちらが見えていたのか、今となっては定かではない。しかと覚えていることといえば、それに際して「橋 雨 傘」とメモを取ったということくらいだ。鳥頭としては、それこそ言葉に頼っているものの、自分こそ自分のために写真を撮るべき人間なんじゃないのか知らん、と思う一件でもあった。
昔友人に連れて行ってもらった、コーヒーを出してくれる花屋が忘れられず、友人に何年振りかに連絡をして場所を聞き、おおよその位置情報と記憶を頼りに花屋へ赴いた。その花屋は、記憶ではあるギャラリーの近くにあったのだが、友人曰く、そのギャラリーは前身をガケ書房とする本屋となっているらしい。あの白いペンキを塗っただけのような無骨なギャラリーが本屋とはどんなもんか知らん、綺麗になっているのか、はたまた建て直しか知らと、思い出の場所に思いを馳せた。いざ着いて見ると、見覚えのあるあのギャラリーが、そのまま中身を入れ替えただけの姿で現れた。懐かしく、当時見た作品や、声を掛けるのも憚られるような人々のことを思い出しながら、今や幾分か親しみ易さの感じられる本屋の店員に花屋について尋ねたところ、やはりそれはすぐ近くにあるとのことだった。ただ、今はもうコーヒーは出していないこと、今日明日は店が休みであることも教えてもらった。しかし休みだろうが構わず、とにかく花屋が見たかったので向かうと、見覚えのある、家の様なそこにたどり着いた。外壁の上の方に、模様にそって穴が空いているところがあり、何年前かの夜、そこから灯りが漏れていたのが印象的で、今またその窓に対面した時点で、この花屋へ対する思いは満たされた。今度は花屋の空いている時に赴こう。
京都にある母の実家が、子供心をくすぐる秘密基地の様な、少し特殊なつくりをしていたのをよく覚えている。大好きだったその家も、祖母が亡くなった時に潰されたということを話だけ聞いていた。尤も、潰れた以上その土地は自分たちにとってなんでもなくなったわけで、この件に関しては話だけにならざるを得まい。しかし、ほんとうに潰れたのか知ら、ボロボロのまま残っているのではないだろうか、それともやはり更地になっているのだろうかと、あまりにもあの家が心に留まっているので、なにか信じられない様な気持ちを持ち続けていた。今回、亀岡の美術館に行く予定を立てたとき、小さい頃に、京都駅から祖母の家の最寄駅である花園駅までの駅を順番に覚え、さらにその先をどこまで覚えられるか、という遊びの最後の駅が亀岡駅だったことを思った。そこで、どうせ花園駅を通るなら、祖母の家がどうなったかを見てみたいと思い、亀岡からの帰り道中、花園駅に降車した。駅を出てまず、思った以上に駅前の記憶がなかった。否、駅前自体が変わっていたのかも知れない。しかしどちらにしろ、チェーン店も目につく色もない、大したことのない白っちゃけた町だ。祖母の家までの道を断片的に思い出しつつ、目の前に見える道と照らし合わせつつ、パズルの様にして考え考え歩いていった。自分の意志で向かっているはずなのに、誰かに頼まれたかの様な感覚で道を探ったのがなんだかおかしかった。そのうちに、断片的な強い記憶、祖母の家の前が二階建ての道路であることを頼りに、遂にその場所に着いた。そこには祖母の家はなくなっていた。そして想像を超えたことに、そこには洗濯物の干された青い一軒家が建っていた。他の家に建て替わっていることなど少し考えれば思うはずなのに、無意識にそれを避けるかの様に、そう考えたことがなかった。あの、赤い蓋付きのポストが出迎え、ガラガラと音を立てて開く玄関の家はもうなく、祖父が亡くなった使い勝手の悪い風呂や、子どもには広場とすら思えたほどの畳の大間、トタン屋根、外にあるトイレ、巨人がホームランを打つと手を打っていた祖母のいる狭い二階も今はなく、誰か知りもしない家族が、祖母のそれとは全く異なる家で異なる生活をおくっていた。なぜだかそれが、とても悔しく、憎く思えた。祖母の家がどうなっているかなぞ、話だけ聞いておけばいいものを、行かなければよかったのだろうかと一瞬思ったが、同時に、自分の中での祖母と、祖母の家の死を改めて受け入れることになった、大切な経験だとも思えた。青い家にすむ家族らも、いつか同じ思いをするのか知ら。
in メ芸の大歓迎!, 2017, at Tama Art Univ, Tokyo